金山で暮らす人たちの声

どきどき金山

やじぃさん

1979年生まれ、愛知県犬山市出身。下呂市金山町で鍼灸師をしながら、バンド「かむあそうトライブス」のフロントマンとして全国各地でライブ演奏を行う。弦楽器「ベサンギ」の考案者。四児の父親。

「今月のうちに街を抜け出そう」鍼灸師とミュージシャン、二足の草鞋を履いて、唯一無二の楽曲が生まれた

やじぃさん(鍼灸師・ミュージシャン/1979年生まれ)インタビュー

下呂市金山町で営む鍼灸院は、看板もなければ名前もないが、口コミだけで月130人程の患者が訪れる。さらに、ミュージシャンとしても活躍。自身が作詞・作曲を手掛けるバンド「かむあそうトライブス」では、生活に根ざしたメッセージ性の強い歌詞を、ゆるやかで温かいメロディに乗せる。2025年は4枚目のオリジナルアルバムをリリースし、全国60か所でライブ演奏を行った。やじぃさんの半生と暮らしをじっくり語ってもらった。

■先天性白内障で幼児期に5度の手術を経験

―幼少期の思い出は?

「先天性白内障で、常に視界が霞んでいました。全身麻酔をして行う手術を9歳までに5度、行いました。親は僕の目のことで、いつもドタバタしている印象でした。」

―病気が与えた影響は?

「兄がピアノを習い始めると、ピアノの音が心地よくて。稽古中、グランドピアノの下に潜って、音の世界を楽しんでいました。それと、手術の影響なのか、瞼を閉じると映像が浮かぶようになりました。幼少期は瞼を閉じて、その世界を楽しんでいる時間が長くありました。」

―現在の目の状態は?

「お蔭様で生活できる程度には見えますが、困ることもあります。幼児期に視界がはっきりしなかったためか、人の顔があまり覚えられないんです。声・話の内容・雰囲気で、人を認識しています。」

■ドラクエで身に付けた耳コピ

―音楽との出会いは?

「6歳からピアノを習い始めました。同時期にドラゴンクエストにハマっていて。ある時、ドラクエの音楽を聴いて『あ、このメロディの音は●●かも?!』と気付くようになりました。自宅の1階にゲーム機があって、2階にオルガンがあって、1階と2階を何百回と往復。曲を聴いてはオルガンで弾くうちに、ドラクエの音楽が耳コピで弾けるようになっていました。」

―小学生時代の思い出は?

「小学校でピアノ教室をやってました。耳コピのドラクエを弾いたら、クラスメイトに『教えて!教えて!』と言われて。『ゲームが教室にやってきた!!』みたいな感じで、男子たちは大興奮でした(笑)」

―他の楽器にも興味を持ちましたか?

「クラブ活動で、トランペットを吹きました。当時は『トランペッターになるんだ!』くらいの勢いで練習して、誰よりも高い音を出していました。トランペットでドラクエも弾いてました(笑)」

■チューバとベース

―中学時代の思い出は?

「吹奏楽部に入りました。入れ違いで卒業した兄がチューバを演奏していたので、チューバにしました。チューバは低音の要です。チューバがいい音を鳴らすと、全体の音がぐっと良くなります。」

―バンドに興味を持ったきっかけは?

「友達がギターを貸してくれたので、数日、ギターの練習をしました。すると、その友達よりも上手になって、喧嘩になりました(笑)バンドを組む時に、ギターを弾きたい子ばかりだったので、じゃあ、僕はベースを弾いてみようと。チューバを吹いているので、低音のことなら多少はわかるかもと思いました。中二でベースを買ってもらいました。」

―高校時代の思い出は?

「兄が高校受験をする姿を見て、あんな苦しそうなことはできないと思い、高校に進学する気はありませんでした。親の希望で、とりあえず、進学しました。高校も吹奏楽とバンド活動に明け暮れ、路上ライブもしていました。」

■音楽を仕事にできるのか?

「音楽を仕事にするにはどうしたらいいのか」と考えながら過ごした高校時代。「曲が作れないとダメだ」「自分の生き方そのものが音楽になるんだ」と考えた結果、それは学校で学べることではないと気が付く。音楽の専門学校に進学したが、半年で退学した。

―専門学校を退学した理由は?

「音響やレコーディングを学ぶ学科に入りましたが、教わったのは基本的な事柄でした。『このまま学費を払い続けても、もう得るものがないかも』と思い、あっさり辞めました。」

―退学後は?

「路上ライブで稼ぎ方がわかってきた頃でした。目を閉じて無我夢中で歌っていると、目を開けた時にたくさん人が集まっていて、お金を貰えたんです。ブルーハーツが大好きで、コピーを歌っていました。バイトでお金を稼いで、東京へ行きました。」

―東京では何を?

「バンドをやろうと思って、音楽仲間のところに転がり込みました。でも、世の中のことをよく知らなくて。駐車禁止の場所に車を停めて、罰金で全財産を無くして、犬山に戻りました。無計画で無茶苦茶でしたね(苦笑)」

■家業である「鍼灸」を意識する

1998年~99年頃はJ-POPの黄金期だ。「この人たちより刺さる曲を作らないといけない。でも、今の自分からは何も出てこない」と思い、様々なジャンルの音楽の現場に顔を出した。すると、音楽の先輩たちから、鍼灸の話を聞くように。やじぃさんの父親は鍼灸師だ。

―鍼灸との出会いは?

「子どもの頃は、父親のことは全く眼中になくて。そういえば、患者さんたち、父にやたらと感謝しているなあと、19歳頃に、やっと父親に意識が向くようになりました(笑)」

―初めての施術は?

「僕が別のバイトで疲弊しているのを見かねた父が『人手が足りないからマッサージをやってみないか?』と言ってくれて。覚えたての施術をすると、患者さんがとても喜んでくれました。こんな世界があるんだと感激して、マッサージを習得しました。」

―鍼灸師を目指したきっかけは?

「21歳でタイ・インドを旅行しました。過酷な旅行中に『帰国したら、自分の施術で元気になる人がいる、喜んでくれる人がいる』という事実に初めて向き合って、自分がやっているとは思えないくらい、いい仕事をしているのではないかと思うようになりました。帰国して『鍼灸師になりたいのかも』と。」

<2025年、日本代表団の一員として、中国の大学や病院を訪れ、鍼灸や解剖の分野の勉強会に出席した>

■加茂郡七宗町で運命の出会い

23歳で鍼灸の学校に入学。3年間学び、25歳で鍼灸師の資格を得た。朝から夜まで、患者さんの指名が続くようになる。同時期に、世界の民族楽器に触れたり、テクノ音楽にのめり込んだり、レゲエバンドでベースを弾いたりした。しかし、音楽を仕事にしようという気は次第に薄れていった。

―鍼灸師の資格取得はいかがでしたか?

「鍼灸師の資格を取得する直前、25歳で結婚し、第一子が生まれました。資格を取らないとやっていけないというプレッシャーで、とても勉強がはかどりました(笑)」

―七宗町へ移住した理由は?

「初めての家族旅行で沖縄へ行きました。『憧れの島に着いた!』と感激していた矢先、認知症の祖父が行方不明になったと連絡がありました。沖縄旅行はトンボ帰りに終わり、祖父は山で亡くなりました。祖母が一人暮らしになったことと、田舎で生活の自給率を上げたいと思っていたことが重なり、犬山の鍼灸院と金山町の祖母宅の間をとって、七宗町へ移住しました。トンボ帰りになった沖縄の影響で、水の綺麗なところに住みたいと思ったんです。27歳から8年間、飛騨川沿いで暮らしました。」

―七宗町での暮らしはいかがでしたか?

「隣に小林陽介(かむあそうトライブスのメンバー/2017年死去)が住んでいました。引っ越しの挨拶に行ったら、お互い髭もじゃで(笑)『何でこんな人が来るんだ?!』と言われて、それはこっちの台詞ですけど、みたいな。『紹介したい友達がたくさんいる』と言われ、数日で、かむあそうトライブスのフルメンバーが揃いました。1週間以内にセッションして『これ、バンドできるね!』となりました。」

■「かむあそうトライブス」結成

28歳で「かむあそうトライブス」を結成した。名前の由来は七宗町の「神渕(かぶち)」と「上麻生(かみあそう)」という地域名の掛け合わせだ。メンバーは当時、全員が七宗町在住だった。

―「かむあそうトライブス」はどのように始まったのですか?

「自分が思ったことを歌ってみようと思って。プロミュージシャンになろうという気持ちは薄れていたんだけど、歌ってみたら、あちこちから呼ばれ続けるようになりました。」

―メンバーはどのような人たちですか?

「みんなそれなりに音楽をやってきたけど、仕事にするのは諦めて、街から移住してきていました。フルメンバーは7人かな。ジャンベにパーカッションにピアニカにフォークギターに。バンドという感じではなくて、ごちゃっと始めたんだけど、アコースティックが再評価された時期で、その流れにハマりました。」

■七宗町→金山町へ「孫ターン」

七宗町の飲食店や道の駅などで演奏を始めると、全国各地の音楽仲間から、演奏を頼まれるようになった。1stアルバム「のけもののけものとたわけもの」は売れに売れ、何度もプレスを繰り返した(現在は配信のみ)。趣味で始めたインディーズバンドで夢が叶う。

―1stアルバムが生まれた経緯は?

「25歳の時に中島正(ただし)さんと出会いました。中島さんは『自然卵養鶏法』を確立した農業者であり、貨幣経済に依存しない自給の生き方を説いた思想家です。金山町にこんな凄い人がいたのかと知って、すぐに会いに行きました。正さんの著書に『都市を滅ぼせ』というタイトルの本があって。レゲエの『チャント・ダウン・バビロン(Chant Down Babylon)』と同じで、感動しました!正さんの著書を拝読して、生まれたアルバムです!」

―「かむあそうトライブス」が売れた理由は?

「1stアルバムの1曲目で『今月のうちに街を抜け出そう』と歌い、ラストの曲で『太平洋の魚が今に食えなくなるよ』と歌っていました。その後、福島県で原発事故が起きて、暮らしを見直そうとする人が増えた。そういう時勢がありました。」

―金山町へ移住したきっかけは?

「一人暮らしをしていた祖母が弱ってきていて、祖母の隣家のおばあさんから、同居を勧められました。『いますぐ、こなあかん!』って(笑)子どもが増えて、七宗町の家が手狭になり、引っ越しを検討していたタイミングでした。『かむあそう』と名乗ったこともあって、七宗町を離れることに迷いもありましたが、2ndアルバムも成功したタイミングだったので、移住を決めました。」

■名前のない鍼灸院

「かむあそうトライブス」は結成18年を迎えた。2025年には4枚目のアルバムをリリースし、全国60か所で演奏を行った。火~金曜は鍼灸院、土日で全国各地を周り、月曜は移動や農作業にあてる。鍼灸師とミュージシャンの二足の草鞋を履き、充実した日々を送る。

―鍼灸院は順調ですか?

「犬山→七宗→金山と拠点を変えてきましたが、お陰様で患者さんは途絶えることはなくて。皆さん、治療を受けて良くなると嬉しいので、家族やお友達を紹介してくださいます。犬山の時から20年以上、通ってくださる方もいます。月130人程、診ています。鍼灸師の仕事はAIにはできないと思うので、これからも需要があると思っています!」

―長い髪と髭はファッション??

「整えるのが苦手なだけで、ファッションではないです(笑)何度か坊主になったこともあります。だから、伸びっぱなしか、ゼロにするかで。伸びてっちゃうよね(笑)」

―今後、やりたいことは?

「治療室で聴ける、ゆったりしたヒーリングミュージックを作りたいと思っています!」

■『自給自足や自然が好きなら 今月のうちに街を抜け出そう』

―やじぃさんにとって農作業とは?

「農作業をしていないと、気持ち悪いというか、ムズムズしてきます。畑や田んぼにいる時間はとても大切です!」

―地域の子どもたちへメッセージをお願いします!

「様々な職業の大変さを知ってほしいなと思います。そうすれば、お互いへのリスペクトが持てますよね。デジタルの世界に持っていかれないように、身体を使って、しっかり運動して、元気でいてほしいです!」

―田舎へ移住を検討している人へメッセージをお願いします!

「『自給自足や自然が好きなら 今月のうちに街を抜け出そう』と18年間、歌ってきました。都会での暮らしはどんどん大変になっているんじゃないかな。もしそう思うなら、早い方がいいと思います!」

―ファンの皆さんへメッセージをお願いします!

「先日、タイのフェスで演奏してきました。色んな国の人と繋がれた時に『世の中、捨てたものじゃないな』とポジティブになって帰国しました。帰ってきたら、日本では国政選挙が終わったばかりで、悲観的になっている人が多かったですが、そのチューニングこそがダメなんだと思ってて。まだ間に合う方にかけた方がいいと思います!」

幼い頃から、音楽という「伝える術」「表現する術」を磨き続けた。人生経験を重ねて、想いが溢れた時、それは自ずと楽曲となり、たくさんの人に希望を与えた。

「天空の城ラピュタ」に「土に根をおろし、風とともに生きよう」という台詞がある。やじぃさんの「土に根ざした生き方」が人の心を動かしているのだと感じた。

「そういう時代」

かむあそうトライブスHP

ライター プロフィール
おおしま ゆかこ

おおしま ゆかこ

岐阜県下呂市出身・在住。ボイストレーナー・習字講師で「読む・話す・歌う・書く」レッスンをしています。六歳児の育児中。畑で野菜を作っています。狩猟免許を取得、罠ガールです。